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蔭山和夫(元南海ホークス選手・監督)

2016年5月27日

5月26日の日経「悠々球論」で、権藤博氏は今季から採用されたコリジョンルールについて柔軟に対応するよう批評をしている。私も、コリジョンルールは、プロ野球の醍醐味の一つであるクロスプレーがなくなることになり、あまり好きではない。

しかし、今日はコリジョンルールの話でなく、この文章に出てきた「蔭山和夫」氏の話です。

蔭山和夫って誰と思われる方は多いと思います。私も現役時代は知らない選手であり監督です。では何故、知っているかといえば、野村克也氏の著書によくその名前が出てきたからだ。

蔭山和夫

蔭山和夫氏は、1927年(昭和2年)生まれ、1950年(昭和25年)南海ホークス入団、1959年(昭和34年)現役引退。その後、ヘッドコーチとして名将鶴岡一人監督を支えた。
そこで出会ったのが、1954年(昭和29年)に入団してきた若き日の野村克也氏であった。野村氏が不調に陥った時、よく相談をしたのが、この蔭山氏なのだ。蔭山氏は、精神主義であった鶴岡監督と違い、理論派であったといわれる。また、当時の南海ホークスは、日本初のスコアラー尾張久治氏在籍し、この3名で野球談議をしていたようだ。
1962年には、首位と15ゲーム差の最下位となりシーズン途中休養した鶴岡一人監督の代行監督としてチームを立て直し、鶴岡一人監督に復帰を促し2位まで引き上げた。まさしく、球界きっての理論派であった蔭山和夫の面目躍如であった。そしてこの功績が後の監督就任要請に繋がるのであった。

蔭山和夫の死

1965年(昭和40年)11月6日、南海ホークスを23年率いてきた鶴岡一人監督が退団を発表した。後任の大本命であったのは、蔭山和夫であった。蔭山氏は当初監督就任要請を固辞したが、南海ホークスのフロントの必至の説得によって13日に、監督就任を発表した。
そのわずか4日後の17日、蔭山氏は突然死去した(満38歳)。原因は、様々な事を言われているが、ストレスが原因であったことは間違いないと思う。当時、ストレスにより精神的に不安定となった蔭山氏は精神安定剤を大量服用していたとされる。
野村氏は後年の著書で、「蔭山監督が就任間もなく亡くなった。表向きには死因は副腎皮質機能不全、いわゆるぽっくり病と発表されたが、真相は自殺であった。」と述べている。その理由を「彼の就任をめぐり、球団内部で抗争の嵐が吹き荒れ、嫉妬や追従、工作や裏切りなど凄まじい人間模様に神経をすり減らし、監督に就任したころにはすっかり精神的にまいっていた」としている。
23年間の超長期に及ぶカリスマ監督(勝率0.609。これはプロ野球監督最高勝率)の後任となることは、大変なプレッシャーでもあり、カリスマ監督に心酔しているスタッフの協力を得る難しさは容易に想像できる。これは、野球に限らずどのような業界であっても同じであろう。このような蔭山氏の姿をみていた野村氏は、蔭山氏の死を自殺と述べたのであろう。更に言うと、この頃の野村氏と鶴岡監督との間はうまくいっておらず、野村氏は同じ野球観のある蔭山氏の監督就任を心底楽しみにしていたのであろう。
蔭山氏の最後の言葉は、「野村(克也)に連絡してくれ」であった。
もし、蔭山氏が死去がなければ、南海ホークスの歴史、野村克也氏の歴史は大きく変わっていた事に違いない。
蔭山氏の後任は、鶴岡監督の復帰であった。その背番号は30から31に変更されていた。

蔭山氏が死去して、51年。まさか2016年の新聞に蔭山氏の氏名が記載されるとは思わなかった。偉大な野球人を知る事でまたプロ野球の深さを知る。

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