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大津事件と三権分立と畠山勇子

2016年5月20日

いまから125年前のきょう(1891年5月20日)、「大津事件」により日露関係に緊張がはしった際に、当時のロシア帝国皇太子ニコライ(後のニコライ2世)に謝罪の遺書を残して畠山勇子が京都府庁前で自決をした。

「大津事件」「畠山勇子」なにそれ?または、国際関係に緊張が走ったら個人が自殺して意味があるの?と思われる方も多いのではないでしょうか。
この事件は、日本の近代化、三権分立を考えるに重要の事件である。

大津事件発生

1868年(明治元年)に明治政府が誕生して、日本は近代国家の道を必死に歩んできた。欧米列強に追いつき追い越せである。そんな貧弱な新生国家である日本に、時の大国であるロシア帝国の皇太子ニコライが来日したのは1891年(明治24年)であった。小国であった日本は、政府をあげて皇太子を接待した。そこで事件は発生した。滋賀県大津町で皇太子ニコライが突然切り付けられ負傷したのである。しかも実行犯は、警備にあたっていた現職の警官であった。この警官の名は「津田三蔵」という。

日本政府の対応

仰天した政府は、皇太子ニコライへ見舞うため、明治天皇にへ緊急の行幸を要請し、明治天皇は直ちに皇太子ニコライを見舞った。次の対応は、犯人である「津田三蔵」をどのよに処分するかである。当然政府内では、津田三蔵を極刑にすべしとの意見が多く、裁判所に対して旧刑法116条(大逆罪)「天皇三后皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」を類推適用するよう働きかけた。

司法界の対応

1890年(明治23年)に大日本帝国憲法が施行、帝国議会が開催され、日本は三権分立を歩み始めたばかりであった(大津事件の僅か1年前)。そして三権分立の一角を担うのが「司法」であり、そのトップは大審院長児島惟謙であった。児島は政府の圧力に対し、旧刑法116条は「天皇三后皇太子ニ対シ」であり、外国の皇族への危害は構成要件から外れており、審理を担当する判事に罪刑法定主義の徹底した適用を求めた。結果的に、大審院は津田の行為に大逆罪の類推適用を認めず、謀殺未遂罪を適用して無期徒刑を宣告した。この事件は、日本が法治主義であることを日本中だけでなく、世界中に知らしめることとなった。

畠山勇子の自決

日本国政府・司法がこのように対応している間、国民はどうであったのだろうか?
ウィキペディアによると

小国であった日本が大国ロシアの皇太子を負傷させたとして、「事件の報復にロシアが日本に攻めてくる」、と日本国中に大激震が走り、さながら「恐露病」の様相を呈した。学校は謹慎の意を表して休校となり、神社や寺院や教会では、皇太子平癒の祈祷が行われた。ニコライの元に届けられた見舞い電報は1万通を超え、山形県最上郡金山村(現金山町)では「津田」姓及び「三蔵」の命名を禁じる条例を決議した。

とある。現代の日本では考えられない反応である。しかしそれから数年後に発生する第一次世界大戦のきっかけとなった「サラエボ事件」(これは皇太子が死亡している)を考えると、当時の国民の反応は当然であったかもしれない。
そんなパニックともいえる状況で、畠山勇子は京都府庁前で自決した。彼女の壮絶な死は、「烈女勇子」として世間に報道され、ロシア側に寛容な態度(武力攻撃・損害賠償請求等)に繋がったのではとの評価もある。果たして、畠山勇子の死はロシア政府を動かしたのであろうか?それは、永遠にわからないであろう。私は、彼女の自決を全面的には賛同できないし、理解も出来ない。しかし、このような女性がいた事実を忘れることもできない。
この「大津事件」は、日本の近代化が統治行為にも及んできたと認識される事件となった。

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